宮島 詠士 みやじま えいし
   

終年林下人

終年=一生涯
林下=官をやめ隠退する
100.5p×17p

慶応3年10月20日(1867年11月15日)生〜昭和18年(1943年)7月9日歿
 米沢藩士(後に貴族院議員)宮島誠一郎の二男として生まれる。名は吉美、通称は大八、詠士は字で、号に詠而帰廬主人がある。宮島家は米沢藩士で五十騎組に属し、米沢藩の祐筆を勤めた祖父吉利(一瓢)は書道に通じ、詠士も幼時から厳しく指導されたと言われる。
 明治4年、5歳で上京、同10年、11歳の時に勝海舟に入門、満州国皇帝来日の折り拝謁を賜る。同13年、清国公使館員の黄遵楷に中国語を学ぶ。同14年、父、誠一郎が設立した興亜学校に入学、後外国語学校に転じ、明治17年(1884)に卒業。江蘇の儒者陳積金に経音を学び、四書を音訳する。
 明治20年(1887)、20歳の時、清国公使・黎庶昌の勧めで渡清して清末の碩学として著名な張裕サに直接師事した。当時、裕サは保定の蓮池書院で教鞭を執り後進を指導していた。裕サは文章家として知られ、その文辞の技量とともに碑学派の書人として評価されていた。
 詠士は裕サが没した明治27年(1894)までの足かけ8年にわたり経学・文学・書法を学んだ。特に裕サの筆法についてその真髄を極め、中国を去るにのぞんで同門の諸子は、「中国の書東す。」(中国の書道、日本に移る)といって惜しんだという。詠士は終生、裕サの用筆を誇示して日本にその書風を伝え、「張裕サといえば宮島詠士」と評された。
 明治27年、日清戦争の勃発に悲痛の思いで帰国、東京帝国大学文学部講師となる。明治28年、自宅で詠帰舎を設立し、中国史・中国語を教授した。後に善隣書院と改称、「善隣」とは「仁に親しみ、隣と善くするは、国の宝なり」という左伝の一説。門下生は3000人を数え、子弟教育に努めた。詠士は、明治期の日本と中国の文化交流、親善の先駆者となる。明治37年(1904)に中国語の教科書『官話急就篇』を刊行。
 詠士は第1次世界大戦直後のベルサイユ講和会議に出席する日本全権牧野伸顕に、全人類の不滅の言葉である「人類平等の提唱」を進言。いまでは当たり前の言葉であるが、当時は国力、身分の差による軽侮の念があり、暴論に近かった。また、人種平等を叫び、アジアの独立を宣言し、日本の政界、官僚、軍人などを痛罵した。東亜民族の興隆のため、生涯をささげ稀にみる東洋の君子と謳われ、その人格からほとばしる書道は「書聖」と仰がれた。
 詠士は『九成宮醴泉銘』と『張猛龍碑』を最もよく臨書し、『高貞碑』、顔真卿なども学んだ。その書風は張裕サ直伝の書に、米?などの筆法を取り入れた特異なもので、切れ味の鋭い筆画、狭い懐、短い横画、左右への長い払いなどを特徴とする。筆にたっぷりと墨を含ませて書き、墨の滲んた部分が一種独特の風情を示している。
 代表作『犬養公之碑』は日本書道史に異彩を放つ楷書碑として尊い。書の門弟に上條信山、藤本竹香がいる。
 勲六等追贈。字は詠士、詠而帰盧主人と号する。

推奨サイト
http://www.yonezawa-np.jp/html/museum/10miyajima.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B3%B6%E8%A9%A0%E5%A3%AB
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/026miyajima.htm
http://tohhigashi.fc2web.com/miyajima.html
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E5%B3%B6%E8%A9%A0%E5%A3%AB-16790
http://members.jcom.home.ne.jp/kimai/senjin-miyajima-jinbutuzou.htm
http://www.weblio.jp/content/%E5%AE%AE%E5%B3%B6%E8%A9%A0%E5%A3%AB


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